『偏食的生き方のすすめ』 中島義道著 by 頑固な文庫読者
刺激的な本。
誰でも「嫌い」なことはある。一般的にみとめられる「こと」もあるのだが、面倒なのは「それ」自体が全く個人的なことなので、本当は他人には分からない部分があることなのだ。
例えば、僕が「ご飯が嫌い」と言うとどうだろう。きっと「何故? どうして?」という問いが返ってくるだろう。それでは「納豆が嫌い」と言うと、「そういう人は多いよね」と言われるかもしれない。
この二つの「嫌い」は、食に関して全く同じ土俵にあるのに、他人の反応が違うのだ。大多数の「一般的な認識」からずれることが、いかにその人を痛めつけるか。
例えば、いわゆるゲテモノを食べる人。一般的な認識からすれば拒否反応を示すわけだが、本人からすれば「旨いのに」と思いつつ、その認識のずれにギャップを感じるだろう。
「偏食」が宗教の教義による制限ならば、説明は簡単だ。
本書で示されるのは、「偏食」だけの話ではない。
「偏食的生き方」である。
個人が持つ生き方の規範だ。これもまた一般的な認識の範疇にあるならば問題は発生しない。しかし、誰にでも「これはしたくない」「絶対にできない」と思う行動はあるはずだ。それが「偏食」の例で示したギャップと同じだとしたらどうだろう。
嫌なものは嫌。誰にでも当たり前の感情が、大多数に否定されることであったなら。
著者はかたくなに偏食的生き方を実践する。かたくななのは、自分を守ろうとするためだ。自分の生き方を変えることは、自分の土台を崩してしまうことになる。余程のことがない限り、そんなことはできない。
うるさいスピーカーの声、明るいのに点灯している照明、話のかみ合わない編集者、暑い機内。衝突することを覚悟の上で抗議する。そうせずにはいられない「生き方」。
無駄なことは止めさせたい。不合理なことは止めさせたい。
根本にはそういう理論があるとしても、大多数がそれに何の疑問もなく受け入れている状態を変えるのは非常に難しい。難しいが、それを気付かせ、変えさせる力は、自分の中でははち切れそうなのだ。
それを「偏食的生き方」というのであれば、実はとてつもない大きなエネルギーを必要とする生き方であるのだ。
つまり、疲れるのである。
そうだ、大多数の人は、疲れない生き方を知らず知らずのうちにしているわけだ。
したくないことはせず、嫌なことには嫌という、自分に正直な生き方は、かくも難しく、他人から見れば滑稽に思える。でも、本当にそう言えるのか。今までの自分の行動を振り返れば、程度の差はあれど同じことをしているのではないか?
実は、嫌なことはしない、という点では、大いに思いあたることがあるので、読んでよかったなぁ、と安心する部分もあったのである。
『偏食的生き方のすすめ』
中島義道著
朝日文庫 ISBN4-10-146724-2
本体438円+税
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