『「尾崎豊特別展」 OZAKI 20』 (ラフォーレミュージアム原宿) を観る
尾崎豊が死んだ、との情報を初めて聞いたのが、ちょうど20年前の4月25日の昼を大分過ぎたあたりだっただろうか。
上野の科学博物館の裏手、線路沿いの道を、FMラジオを聞きながら歩いていたときだった。
「えっ?」
と思ったそのすぐ後に、気温が急に下がったような気がしたを覚えている。
自分では、ファンだと思ったことは無く、単に楽曲を聴きくくらいのものである。
初めて尾崎豊を知ったのが『早すぎる伝説』というTV番組だったのかもしれない。
その前に曲を知っていたのかもしれないが、存在として意識したのはその番組だった。
記憶はおぼろげであるが、尾崎豊が泣くシーンがあって、なんだかそれは泣き笑いというか、一種危ない泣き方だな、危ないヤツだな、なんて感想を持ったのだ。
(これは全く別の記憶かもしれないのだが、あっしにとって『早すぎる伝説』とはこの場面の記憶なのである)
ただ、それ以外に尾崎豊の生き方については興味はなく、CDが増えていくだけであった。
だから、尾崎豊が死んだときも、その死に方に疑問符が駆け回るようなことも無く、淡々とそれを受け入れるのみだったのだ。
その後、見城徹の『編集者という病い』という本の中で、尾崎豊の内面を幾ばくか知り、疑問符が出る前に感嘆符が出た。とはいえ、それ以上でもなく、それ以下でもなく。
要するに、あっしと尾崎豊は他人であるし、近づこうが遠ざかろうが、どうでもいいのだ。
でも。
歌の中で発せられるメッセージは、だれでも一度は考え、疑問に思い、どうすればよいのかと悩むあれこれを、すくい上げている。
もし、誰か他の人が同じ歌を最初に歌っていたら、と考えてみると、そういうシーン自体が浮かばない。
尾崎豊の曲は、尾崎豊でしか為し得ないと思わせるだけの重力があって、知らず知らずのうちに、あっしの精神的な部分の少しは引きつけられているのだ。
思うところはいろいろとあり、今回の特別展で何かが分かるのか、変わるのかを期待して観てみたが、長い間奥の方で熟成していた考えは、そうそう変わるものではないことが分かった。
尾崎豊が発した数々のメッセージが、居並ぶ写真パネルであったり、楽器だったり、ノートやイラストだったりを観た後でも変化することは無い。既に、確固たるものとして、脳味噌のどこかに置かれていることに改めて気付くのだ。
会場入口の大型パネル。(唯一、写真の撮れる場所だそうです)
ちょっと別の話。
今回も音声ガイド500円也を借りましたが、今まで他の場所で使われていたモノとは種類が違い、ペン形で会場内の壁に掲げられているプレートをなぞるとヘッドフォンから解説が流れるというものでした。
はっきりいって、これはめんどくさいし、会場が混雑するとプレートの前に人がいたりして避けたり待ったりしなければならない。他の展示会のようにテンキーで選択するやつにすべきだと思う。
また、音声ガイドの内容も、一カ所に対して内容が長すぎ。
もちろん、内容が充実していること自体はいいのですが、たとえば、とある写真の解説が2分も3分も必要だろうか。(何十枚と写真はあるのに、そこで立ち止まってしまうことになる)
同じ内容を分割して、見学のペースに合うようにすべきだと思いました。
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