« 2013年12月 | トップページ | 2014年6月 »

2014.01.14

『魔性の女 挿絵展 / 竹久夢二 美人画とモデル展』(弥生美術館/竹久夢二美術館) を観る

20140114a

魔性の女とは何なのか。
こういう分野にはイメージが湧かん(笑)

ただ、ひとついえることは、多くの場合、物語が先にあって、聴く者、読む者の心に現実の(とはいえ絵であるが)形として挿絵を用いているということだ。

未だかつて経験のないことは、それをイメージすることへの困難が伴う。物語を読み、「魔性」という属性を持つ女性が具体的にどういう人物なのか。精神的なものと、外見的なことはリンクしているのだろうか。あるいは、外見的なことから、我々は「魔性属性」を感じ取るのだろうか。どっちが先で、どっちが後か。

まぁ、あっしとしては物語が先だと思っているけど。

いずれにしろ、関わる男どもの行く末に幸福は待っていないことだけは決まっている。


前置きが長くなってしまったが、「魔性の女」というくくりで捉えると、今回の展示で明らかなように、多くの人が多様な筆でそれを表現してきたのかが分かる。

中でも、橘小夢の絵は背景となる物語を知らなくても、一種異様な雰囲気で満たされている女性だと、誰が見たって意見は一致するだろう。『玉藻の前』『安珍清姫』『高野聖』など。おそらく現代のイラストレーターでは類似する画風で人気を得るのは難しいと思う。
それは、今あふれかえっているイラストが、物語の力を背負っていないように感じるから。あるいは、物語の持つ魔性属性が弱いからなのかもしれない。
もっとも、あっしがそういうイラストに接していないだけだったりして。

橘小夢だけでなく、その他の画家の絵も、何らかの雰囲気を持っている。緩やかな螺旋階段を下っていくような。別の絵では、強引に腕を引っ張られるような。

魔性というイメージが、画家と鑑賞者の間で近づけば近づくほど、絵を観たときの衝撃が大きくなることは言うまでもない。しかし、数々の絵から湧き上がる雰囲気から、魔性という掴み所のないものを自分の中で固めていくのもまた一興だと思う。

次はお隣の竹久夢二美術館。館内を歩いてわずか20歩(笑)

竹久夢二の美人画には、その時期その時期にモデルが存在する。
有名なところでは、岸他万喜、笠井彦乃、お葉。
写真と共に絵を確認すると、眼だったり、眉毛だったり、口元だったりと、なるほどと感じる。

ただ、それを知らず、絵を絵として観ても、夢二以外の何者でもないし、女性としての描き方は一貫してぶれていないと感じるだろう。

それぞれの女性との恋愛時期によって、顔やちょっとした表現が変化するかもしれないが、逆に言うと、ファンにとってはそういう部分に自分の満足を見出すのかも。

だとしたら、あっしは真面目なファンではないなぁ(笑)
というか、ほとんどすべての画家に対して真面目なファンではないのかもね。


魔性の女 挿絵展 / 竹久夢二 美人画とモデル展
弥生美術館/竹久夢二美術館
2013/04/04~2013/06/30

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.01.13

『生誕100周年・没後30周年記念 中原淳一の生きた戦中・戦後 ~少女像にこめた夢と憧れ~』 (昭和館) を観る

20140113a

去年(2013年)、中原淳一は生誕100年、没後30年にあたり、既に大きな巡回展が開催されていた。

昭和館のこの企画展も、あっしが情報を見つけた当初は巡回展の一部かと思っていたのだが、全く方向性の違うものであった。

さすが昭和館(笑)

中原淳一の生い立ちについては、一通りの説明はされている。しかし観るべき所は、昭和館ならではの視点による中原淳一である。

それは戦争の前後。

たとえば、表紙絵を描いていた『少女の友』から降板を余儀なくされたり、服飾の統制や配給制への切り替え、さらには、自分自身の出征もあった。

こういう流れの中で、おそらく中原淳一の考え方は変わっておらず、女性がより良く生きるには、という点はぶれていない。

『少女の友』の降板に関しても、雑誌の中からは消えたかもしれないけれど、慰問用の絵葉書にはしっかりと淳一スタイルのイラストが生きている。
防空服の型紙についてくるイラストだって、そうだ。

軍部がなんと言おうと、求めている人びとには応えるべきと、考えていたのだろう。それは自らの求めるところの裏返し。
実際に、中原淳一の慰問用品は戦地の人びとにとっては歓迎されていたそうだ。

さて、繰り返しになるが、昭和館の面白いところは、やはり戦争とは切り離せない展示なるところ。

さきの絵葉書は実際に慰問に使われ、インクの跡も生々しいものが展示されていたし、防空服や型紙から起こされた洋服も復元されて飾られていた。
単なる女性向けの雑誌やファッションのことだけが中原淳一なのではなく、時代に翻弄されていたのもまた明らかなのである。

明日がどうなるかも分からない。
だからこそ、何か頼るものとして、支えとして、忘れて欲しくないものとして、中原淳一が発信し続けたこと自体が、奇跡的なことなのではなかろうか。

戦後、それいゆ、ジュニアそれいゆ、などで活躍したものの、晩年には病に苦しめられ、想いを貫徹できなかったことは残念だったろう。

結局、神保町に立ち寄る際、何度も足を運んでしまいました。
だって、ロハなので(笑)

『生誕100周年・没後30周年記念 中原淳一の生きた戦中・戦後 ~少女像にこめた夢と憧れ~』
昭和館
2013/03/16~2013/05/12

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.01.05

『ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り』 (森アーツセンターギャラリー) を観る

20140105a

ミュシャといえば、アール・ヌーヴォーの、とまぁそれくらいは知っているし、というか、以前にも何度か展覧会を観たことがある。

なんといっても、初期のポスターに代表されるような独特の表現美。ある意味、頑ななとも感じられる様式。たぶん、この部分に惹き込まれてしまう人は、一生忘れられなくなってしまうだろう。

と、今までの印象を反芻できるのはここまでで、会場の後半は様相が異なる。

ざっくりいえば、ポスター系美術から、精神世界を表現する美術への移行である。明らかに違ってくるのが顔の表現。鑑賞者に親近感を覚えさせるのが前半というならば、後半は苦しみを訴えかけるかのよう。

それを象徴するかのような作品が『スラヴ叙事詩』であろう。(ただし、展示はなくてプロジェクターによる作品紹介だったけど)
自分の民族的なアイデンティティの再確認というか、守りたい強固な想いというか。
それは娘の肖像画にも表れており、民族衣装を纏い、重い表情をしていることでも見てとれる。

はっきり言って、後半は観ているだけで疲れてしまう。
ミュシャの抱えている想いを、受け取れきれないのだ。
それは、あっしがそれだけの似たような想いを持った経験がないということの裏返しなのだろう。
たとえば、故郷を失うとか、民族全体が危機に瀕するとか、そういった自分自身の軌跡の危うさを。

最初は浮かれて、出口でグッタリ。
しかし、ミュシャはその出口に向かって自己のすべてを捧げたことに気がつかされたことだけでも、十分だ。
よくよくポスターを見てみると、
「あなたが知らない本当のミュシャ。」
とあった。
そういうことだったのか。

『ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り』
森アーツセンターギャラリー
2013/03/09~2013/05/19

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.01.04

『アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密』 (東京都写真美術館) を観る

20140104a


所謂ファッション雑誌の表紙を飾るような写真といえば、ひと目でそれに釘付けにされてしまうような魅力を持っていなければならない。

それが芸術かと言われると違うような気もするが、実際のところ、眼から脳味噌に抜ける感覚としては同じものなのではないか。

ここに来る直前に、『エドワード・スタイケン写真展』を観たのだが、そこではモノクロのポートレイトが静に、力強く、しかも色っぽく眼に飛び込んできた。


またもや、アーウィン・ブルーメンフェルドという名は知らなかったが、そんなことはどうでもよろしい。

戦中戦後の『ヴォーグ』などの表紙が展示されていたが、とても混乱した状況の中で発行された雑誌とは思えない。雑誌の持つ意志と、それを支える写真家のタッグを見るようである。

しかし、色鮮やかな表紙(とそのヴァリエーション)が、先のモノクロポートレイトとは逆に力を感じさせない。というか、何か考える余地を与えないままに刺さってくる。そう、鑑賞するというよりも、突き刺さる。

良い悪いは別として、ファッション雑誌の表紙に必要な表現力を持っているということなんだと思う。

それ以外の作品も工夫が凝らされているものが多い。
具体的には、先の写真展の看板でも感じた「美+想像の美」というもの。被写体そのものが持つ美しさと、鑑賞者が持つ理想の美しさとの組合せである。あえて被写体(それは主に女性であるが)そのものの美しさを減じても、それを補う想像上の美があれば、全体として、より高次元の「美」ができあがるのだ。

極端な話、磨りガラスの向こうにぼんやりと姿が写っているだけでも、見方によっては背筋が痺れるほどのものが脳味噌の中で駆け回るのである。

そういったある種実験的な写真はさらに時代を遡ったモノクロ写真に多い。マン・レイのようなソラリゼーションを用いたものや、意図的に被写体を歪ませたり。

今回、意図して二つの写真展を同じ日に観てみた。
共にファッション誌で活躍した写真家の作品であるが、まったく別のことを感じる不思議。


『アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密』
東京都写真美術館
2013/03/05~2013/05/06

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.01.03

『高橋秀の世界 版画 1959→2010』 (世田谷美術館) を観る

エドワード・スタイケン写真展』を観終わったあと、館内のもう一つの展示室でやっていたミュージアムコレクション展にも立ち寄ってみた。

高橋秀
これまた、いつものように知らない(汗)
期待はしていなかったのだが…。

タイトルの通り、版画なのだが多くの作品にエンボス(凹凸)が入っている。比較的単純な形状、かつ、色使いも数色くらい。でも、エンボスのあるところには、光線の加減によって陰影がつくため、鑑賞する位置によって面白い効果が出るようだ。

と、概要はこうなのだが、実際のところ、展示されている半分以上の作品は、見方によってはエロティック。

それらの作品のイメージするところは女性の局部なんだろうなぁ、ということなのだ。しかも、エンボス加工されている部分も相まって、単純化されている形状にもかかわらず、ふっくらとしたお尻だったり、×××だったりと…。

ホントは、最初なんだか分からなかったんですよ。それで、1/10位の作品を流し見したあとに気がついて、もう一度最初から観直したりして(笑)

たまたま、鑑賞している人がそんなにいなかったもんだからいいんですが、沢山の人がいたら、そういう行動をしているあっしを見て、どう思ったでしょうかねぇ(汗)

ともあれ、今までに観たことがない作品群にぶつかって、半分赤面し、半分楽しく歩き回ったのは間違いない。
思いもよらぬところで、小っちゃな宝石を拾ったような気分。

『高橋秀の世界 版画 1959→2010』
ミュージアム コレクション2012-III
世田谷美術館
2013/01/25~2013/04/21

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.01.02

『エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影 1923-1937』 (世田谷美術館) を観る

20140102a


世田谷文学館には何度か行ったことがあるけど、世田谷美術館には初めて足を運んだ。

桜が開花してすぐだったが、えらく寒い日で、東急田園都市線の用賀駅から歩いていても、体が温まらなくて参った記憶がある。
そんな陽気だったのに、砧公園では花見客が沢山いたのが驚きだった。

さて。
エドワード・スタイケン。

例のごとく、全然知らない。
それに、写真系の企画展にはあまり興味をそそられないのでなおさらであった。

だけど、この写真のような、何とも言えない技巧を凝らしているようなものを見て、ビビッときてしまったのだ。
エドワード・スタイケンという人は、所謂ファッション系写真を主に撮っていたらしい。

たとえばこれは、モデルの顔を直接我々に伝えるのではなく、模様のある紗をかけることにより、我々の中にある美の追究心のようなものを引き出し、モデルそのものの美しさに想像の美しさを付加する役目を持たせているのではないか。


「ルーブルで見るから芸術なんだよ。
  『ヴォーグ』をルーブルにしよう」


という言葉を残している。

強烈な皮肉である。

場所であったり、金額であったり。
そういった、見る対象とは直接関係ないコトが、我々の「眼」を曇らせてしまったり、眩しがらせてしまったりしているのは否めない。
おそらく、発表媒体自体を美術館と同じ土俵にすることによって、美術館における芸術未満をあぶり出すことも意図している言葉なのだろう。

展示されている写真は、どれもモノクロ。

でも、ほとんどすべてが色っぽい。

それは女性がモデルである写真はもちろんなのだが、男性であってもそうだし。(たとえば、ガーシュウィンの写真なんて、すごい)
靴だけの写真だって、そう。

目からウロコ。

あっしなんかのへっぽこ写真なんて、即ゴミ箱行きですよ。
写真そのものの表現力を知る、威力を知る、という意味では、観なければ分からないという、そのこと自体を再認識した次第。


実はこの日、この企画展を観た後、恵比寿の東京都写真美術館でもファッション系写真展を観ることにしていたので、追って。

『エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影 1923-1937』
世田谷美術館
2013/01/26~2013/04/07

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.01.01

謹賀新年

実家で雑煮とおせちを少し食べ、昼前には出発。

昨年も元日に訪れた大洗のアクアワールド茨城県大洗水族館に。

のろのろの車の後ろに付いてしまったことと、駐車場渋滞にはまってしまったこともあって、実際に到着したのが2時過ぎ。既にアシカイルカショーの会場は埋まってしまっていたので、最終回(16時)のを観ることにし、その他の水槽を観て回る。

前回もそうだったけど、クラゲがいいなぁ。

20140101b

暗い順路の中にあった椅子に座って、ぼんやりと光るクラゲの水槽をしばらく眺める(笑)

さて。
ショーの会場の開場は30分前くらいから。
最終回にもかかわらず既に多くの人が並んでいたけど、なんとか椅子席を確保。

20140101a

ショーが始まると、司会のお姉さんの甲高い声と、イルカのジャンプやアシカの仕草などで、なんだかキュンキュンしてしまい、鼻の奥がツーンとなってしまう。確か、昨年もそうだった。
なんでだろう。なんでだなんでだろう(笑)

プログラムが終わり、会場の照明が落とされると、ちょっとぐったり。
水族館から出ると、入場するときは暑いくらいだった空気がヒンヤリしていた。
日が落ちて、櫛の歯になったような駐車場の中を歩いていると、一年の終わりを先取りしてしまったような気がした。

ともあれ。
各方面の方々、今年もよろしくお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年12月 | トップページ | 2014年6月 »