『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 (村岡恵理著) を読む

なんというのかな。
環境や時代の変化が、自分の目指すところに壁を置いてしまうことになるのは止められない。
止められないからこそ、穴を開けたり、梯子をかけたり、遠回りをせざるを得なくなる。
花子の生涯には必ずどこかにその可能性が残されており、結果としてみれば、まっすぐに歩いてきたように勘違いしてしまう。
それだけ、ぐいぐいとこの本を読まされてしまうということが言いたいのだ。
それに、あちこちに(涙)ポイントがちりばめられている(あっしにとっては(笑))
本当はもっと書きたいことがあったのでしょう。燁子との関係だってあっさりと書かれているし、儆三との恋愛についてだってそう。婦人参政権の話や戦時中の生活、そんなことだって、もっと深く書けるはず。
と思うのだけど、やっぱり花子の志が何であったのかを考えれば、ある程度の枝葉を落とさなければならないし、逆に言えば、あっしのように考えるおっさんもいるのは承知で、『赤毛のアン』シリーズを読むべき世代を対象にしているのでしょう。(あっしはそれを読んでないのです(汗))
助け、助けられ、山を登っていくような花子の人生を思うとき、何の信仰もないあっしには理解できない部分もある。なぜ、その現実を信仰のうちに取り込むことができるのか。だからこそ志を全うすることができた、ということなのか。
それは本人にしか分からないのかもしれない。分かってもらわなくても構わないのかもしれない。
ひとつ不思議だったのは、戦前にミス・ショーから託された『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を戦時中に必死に翻訳していたのに、戦後になってから出し渋っているような雰囲気があったこと。花子は学生時代に『源氏物語』や『万葉集』などの古典を勉強していたのに、たかだか40年前に発表された原作の翻訳本出版をためらったのは何故なんだろう。下手をするとミス・ショーとの約束を反故にしてしまう恐れがあったのに。
ともかく、村岡花子は壁で見えない曲がり角をいくつも曲がって、自らの志を実現するという、いちばんよいもをつかんだのだ。
とりあえず、期限内には読み終わったので、あとは体調・時間等勘案して再度弥生美術館へ行けるかだなぁ。あっはっは。
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