2015.03.22

『一刻も早く! 戦場からの患者搬送』 (しょうけい館) にて、三角巾の使い方を教わる

お茶の水の本屋に立ち寄る前に、九段の昭和館でやっている『戦後70年 よみがえる日本の姿』という企画展と常設展を見た後、受付でパンフレットを見つけて、しょうけい館でも新しい企画展をやっているとのこと。

20150322a

昭和館から書店街に行く途中(というか昭和館から横断歩道を渡ればすぐ)に「しょうけい館」がある。
(入口は表通りにではなく、小道を入ったところにあるので分かりにくい)

20150322b

『一刻も早く! 戦場からの患者搬送』

というタイトルで、戦地での傷病者を如何に治療、後方への搬送するか、といった内容となっている。
具体的には、

1.患者集合点 : 傷病者が最初に集まる指定場所。臨時の包帯所となる場合もある
2.包帯所 : 応急手当をしたり、野戦病院への搬送拠点となる
3.野戦病院 ; 前線に近く、本格的な治療が行える
4.兵站病院 : 市街地にある病院
5.転地 : 患者自動車・患者飛行機・患者列車などを使用
6.故郷へ : 内地への帰国

といった順番でそれぞれパネルと説明書きがあった。
戦地では戦うことだけが注目されがちだが、怪我や病気などで戦闘に参加できなくなった兵士を速やかに治療し、後方へ送るかも重要な問題である。おそらく、補給と共に二本の柱といったところなのではないか。

あっしが展示場所に入ったとき、たまたまギャラリートークの3/4が終わったあたりで紛れ込んでしまった。

で、その残りの1/4は、応急治療法に関する当時の資料に関して。

その中には、今と違って、心臓が止まっていれば「死んでいる」、心臓が動いていれば「仮死」、意識があれば「大丈夫」、といった分類みたいなものだったという。

また、人工呼吸に関しては、主に溺れた人に対して行うもので、一度始めたら5時間は続けなければいけない、なんて決まりがあったそうだ。 (ただし、実際に5時間続けた人の話は聞いたことがないそうだ)

そのあと、応急処置法の中に書いてある「三角巾の使い方」の話になり、どういうことか、トークを聞いていた人たちに三角巾が配られた(笑)

続いて登場した女性が、看護師もやられたいた(?)研究者の方で、三角巾の使い方を研究されているそうな。
そのために、何十万もする書物を自腹で(研究費でまかなえないので)買うほどの人。
今では腕を骨折したら、それ用の釣り具があるから病院でも三角巾を使うことはなくなっているらしい。

配られた三角巾はこれ。

20150322c
(クリックすると別ウィンドウに拡大表示します)

なんと、しょうけい館オリジナル。
下側に人物が描かれているのが分かるでしょうか。
よくよく見ると、多くの人が三角巾を使っているのです。
しょうけい館オリジナルではありますが、この絵の部分は当時実際に使用されていた三角巾の絵柄をトレースしたものだそうです
なぜ、このような絵柄が描かれているのかというと、理由があります。

例えば、左側にいる二人の人物を拡大してみると、

20150322d

右側の人物は、右目から右耳にかけて三角巾を使っているようです。 (二)
左側に人物は、、右膝(五)と左手(七)。

というように、使っている場所のすぐそばに漢数字が書いてあります。
実は、この数字が三角巾の巻き方(使い方)を示しているのです。
(別の解説書に細かい巻き方が書いてある(らしい))


中央下少し右の人は、左足を骨折しているようですね(十六)
副木を留めるために使っているみたいです。

20150322e

その上にいる人物は、よく見ることのある腕骨折の人のようです(十七)
手を吊っています。
20150322f

少し右側の人も手を吊っていますが、骨折ではなく、手の部分も覆っていることから、手の甲を負傷しているのかもしれません(二十四)

20150322g

あっしも、他の人とペアになって、お互いに手を吊ったり、太腿を止血したり(笑)

三角巾がなければ、風呂敷でも代用できるので、一度自分で試してみるのもアリですよ。

使わないで済めば、それが一番いいことなんですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.02.20

USB DAC付ヘッドフォンアンプの話 (Digi Fi No.10 付録) その5

引き続きです

前回は文字ばかりだったので、今回は図を使って再度簡単に説明します。

20150220a
( ↑ よく見えない方はクリックすると別窓で表示します)

図(A)は、PCM2704C 自体のアナログ出力です。
アナログ部の電源電圧である 3.3V の 1/2 (= 1.65 V) を中心として、電源電圧の0.55倍をPeak to Peak (=1.815 Vpp)とする正弦波振幅を出力します。

ところが、本機の出力仕様を満たすためには、約3倍の電圧増幅が必要になります。

図(B)は、この増幅後のアナログ出力波形を示したものです。
この図では、1.65 Vを正弦波の中心としています。

正弦波の振幅は、5.66 Vpp (Peak to Peak) となるために、波形の上側は 4.48 V、下側は -1.18 V になります。

この時点で、既に元の電源電圧 3.3V を超えていますし、USBの電源電圧 5V の範囲にも収まっていません。したがって、電源側に何らかの対処が必要なことが分かります。

また、オペアンプを使って増幅させる場合には、前回も述べたように同相電圧入力範囲、出力電圧範囲の制限である 1.5V の余裕を持っておかなければならないことにも注意が必要です。

ここで、正弦波の上半分の半波だけを考えてみます。

仮想電圧基準(仮想GND)を 0V としてみると、上側ピーク電圧は 2.83V 。
さらに、オペアンプの動作電圧余裕を 1.5V とすれば、

2.83 + 1.5 = 4.33

となって、5V 以下となります。
つまり、半波ずつであれば、それぞれに対応する電源電圧が 5V で事足りることになります。

通常、オペアンプの基準電圧は 0V 、電源電圧は上下均等に 5V (+5Vと-5V)とか、12V (+12Vと-12V)などにするような考え方です。

ここで、5V といえば、USBの電源電圧ですから、そのまま使えれば使ってしまった方がいいでしょう。

それでは、もう一つの電源はどうするか?

既に、その2の回で、それらしい回路があることに気がついてはいますが…。

いよいよ次回真相が明らかに
(まだ続くのかよ(笑))

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014.12.17

幸田文の話はまだ続く

20141217a

幸田文。

その評論書というか、研究書というか、関連書も含め、大分手を広げて入手。
もちろん、半分以上が古書であります。
(順不同で並べてあります)

「幸田文」のみを扱った本もありますが、大勢の一人や、父である幸田露伴との交遊録に登場している姿であったり、娘である青木玉の随筆、孫である青木奈緒の随筆もあります。

一応、左から

・東京人 1996年1月号(創刊100号記念) 特集「幸田家の人びと」明治の遺産。
・『作家の猫』
・『明治・大正・昭和の女流文学』 板垣直子著
・『文藝別冊 幸田文 没後10年』
・『文藝別冊 幸田文 生誕110年、いつまでも鮮やかな物書き』 (上の文藝別冊の増補改訂版)
・『幸田文の世界』 金井景子/小林裕子/佐藤健一/藤本寿彦著
・『新潮日本文学アルバム 幸田文』
・『日本の作家100人 人と文学 幸田文』 岸睦子著
・『幸田文のかたみ』 深谷考著
・『幸田文「わたし」であることへ』 藤本寿彦著
・『女性作家評伝シリーズ13 幸田文』 由里幸子著
・『幸田文のマッチ箱』 村松友視著
・『幸田文展図録』
・『幸田文の簞笥の引き出し』 青木玉著
・『小石川の家』 青木玉著
・『幸田家のきもの』 青木奈緒著
・『蝸牛庵訪問記(露伴先生の晩年)』 小林勇著
・『幸田家のしつけ』 橋本敏男著
・『帰りたかった家』 青木玉著
・『記憶の中の幸田一族 青木玉対談集』 青木玉著

です。

ホント、それぞれについて一文を載せたいくらい。

『幸田文の簞笥の引き出し』『幸田家のきもの』という題に表れるように着物に関しては、一生を着物で通した人なので、まつわる話が多く、前者は写真も豊富で楽しい。
(ただし、あっしが着物全く詳しくないので、おそらく面白さの半分ももらっていない気がするけど(汗))

『蝸牛庵訪問記』は、当時岩波書店の編集部員であった小林勇氏が、露伴を訪う度に記録した日記のようなもので、大正15年から昭和22年までの記録である。(なお、小林勇氏はのちに岩波書店の取締役会長になった)
この記録の中で時々登場する幸田文は、夫との生活に悩む姿や、離婚後に露伴の生活を支える姿であったり、看取る姿としてとらえられている。
間近な第三者として貴重な証言者のひとりとなっている。

幸田文の娘である青木玉もまた貴重な証言者である。
これは奇しくも、露伴に対する文、という生活者から文学者への変貌という関係を目の当たりにしたことに相当する。
だから、「文が記す露伴の思い出」と「玉が記す文の思い出」が呼応するようで非常に面白い。


とまぁ、まだまだ書きたいことがたくさんあるんだよ~~~!

そのうちにね(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.11.11

先週のはなし

先週東京に出かけたところ。

1) 『手塚治虫の美女画展』 (吉祥寺 GALLERY KAI)

2) 『特別展 輝ける金と銀 -琳派から加山又造まで-』 (恵比寿 山種美術館)

3) 『こどもの発達と成長』 (弥生 東京大学医学部・医学部附属病院 健康と医学の博物館)

4) 『鋼の超絶技巧画報 髙荷義之展 / 生誕130年記念 再発見!竹久夢二の世界 【後期】ボヘミアン・夢二』 (弥生美術館 / 竹久夢二美術館)

記事化予定は未定です(汗)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.10.11

思い切らないと買えない本

小説や雑誌のように、買おうと思えばいつでも買えて、読もうと思えばいつでも読めるものは、値段もそんなにしないし、気楽に手が出せるのである。 (もちろん、店頭に並んでいたり、ネットで入手できたりすればの話)

根本には、「読みたい」から買うのであって、それが「積ん読」になってしまうのは、また別の話。

しかし、それ以外の本、例えば資料として必要だったり、というものは、何かと天秤にかけなければ手を出しづらい。当たり前の話だけど。

特に、辞書はそういう範疇の本だろう。
おそらく、多くの人は、新入学などを契機に新しい辞書を買う。最初は国語辞典。次は英和辞典、古語辞典か。

でも、社会人になってからは新たに買うことはほとんどないのではなかろうか。
かくいうあっしも、卒業後は小型の国語事典、漢和辞典、英和/和英辞典を買い足したくらいで、いずれも既に20年近く前の話。


さて、それから幾星霜。

もともと漢字に興味を感じていたあっしは、白川静の漢字学を知り、関連書籍を読んだりしていたのだが、『字統』『字通』という大判の辞典を買うまでには至らなかった。

(ちなみに、これらの古書価格はこちらを

そうこうしているうちに、『字通』の普及版が発売されることになり、価格自体も大判の半分以下となってお手頃感倍増(笑) 
我慢できずに、発売直後に入手。


それとは別に、小説を読んでいると未だに意味の分からない言葉に遭遇することが多い。特に、最近集中的に読んでいる幸田文の文章には、明治生まれ東京育ちで当時使われていて、もう廃れてしまった言葉や、東京方言が多く、滑らかに読めないこともしばしば。

しかも、持っていた『新明解国語辞典(第四版)』には載っていない。
やはり小型辞書の限界を感じてしまった。

ということで、とうとう手を出してしまいました。

20141011a

あははは。
それぞれ、今後何回ページをめくるか分からないけど、それはそれでいいんです。
安心感ですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.10.08

『二重の間違い』 街中の劇物 2014-05

20141008a

2003年に、確か神田小川町か淡路町の十字路付近にあったコインパーキングで撮ったモノ。

コインパーキングの値段やら精算機は別にあって、これはコインパーキング開設のための看板らしい。

しかし、うっかりすると見逃してしまうが、間違いがあります。

さて、どこでしょう。

20141008b

24Hours, (24時間)
365Days A Year, (1年365日)
¥100/MINUTES (100円/分)

えっ?

1分で100円?

超高級コインパーキングか?

まぁ、第一の間違いはここですね。

もう一つの間違いは、細かいことですが、

1分で100円ならば、

¥100/MINUTE

にはるはずです。
1分は、単数ですから。 ("MINUTES" は複数形ですもん)

ということで、二重の間違いがある看板、でした。
あぁ、説明がめんどくさい(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.09.09

『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 (村岡恵理著) を読む

20140909a

なんというのかな。

環境や時代の変化が、自分の目指すところに壁を置いてしまうことになるのは止められない。
止められないからこそ、穴を開けたり、梯子をかけたり、遠回りをせざるを得なくなる。

花子の生涯には必ずどこかにその可能性が残されており、結果としてみれば、まっすぐに歩いてきたように勘違いしてしまう。

それだけ、ぐいぐいとこの本を読まされてしまうということが言いたいのだ。
それに、あちこちに(涙)ポイントがちりばめられている(あっしにとっては(笑))

本当はもっと書きたいことがあったのでしょう。燁子との関係だってあっさりと書かれているし、儆三との恋愛についてだってそう。婦人参政権の話や戦時中の生活、そんなことだって、もっと深く書けるはず。

と思うのだけど、やっぱり花子の志が何であったのかを考えれば、ある程度の枝葉を落とさなければならないし、逆に言えば、あっしのように考えるおっさんもいるのは承知で、『赤毛のアン』シリーズを読むべき世代を対象にしているのでしょう。(あっしはそれを読んでないのです(汗))

助け、助けられ、山を登っていくような花子の人生を思うとき、何の信仰もないあっしには理解できない部分もある。なぜ、その現実を信仰のうちに取り込むことができるのか。だからこそ志を全うすることができた、ということなのか。

それは本人にしか分からないのかもしれない。分かってもらわなくても構わないのかもしれない。

ひとつ不思議だったのは、戦前にミス・ショーから託された『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を戦時中に必死に翻訳していたのに、戦後になってから出し渋っているような雰囲気があったこと。花子は学生時代に『源氏物語』や『万葉集』などの古典を勉強していたのに、たかだか40年前に発表された原作の翻訳本出版をためらったのは何故なんだろう。下手をするとミス・ショーとの約束を反故にしてしまう恐れがあったのに。

ともかく、村岡花子は壁で見えない曲がり角をいくつも曲がって、自らの志を実現するという、いちばんよいもをつかんだのだ。

とりあえず、期限内には読み終わったので、あとは体調・時間等勘案して再度弥生美術館へ行けるかだなぁ。あっはっは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.09.04

あまり知られていない中原淳一の仕事 『婦人文庫』

中原淳一といえば、

・少女の友
・それいゆ
・ひまわり
・ジュニアそれいゆ

といった雑誌の仕事や、ファッションそのもの、ファンシーグッズなどの先駆けなどで知られている。

『少女の友』は大東亜戦争に突入する前年に軍部からの圧力で雑誌から降板している。
したがって、戦後は『それいゆ』から始まったということになる。

『それいゆ』は、中原淳一が全面的に手をかけて出版した最初の雑誌であるから、確かにその通りであろう。
ちなみに、『それいゆ』(創刊号では『ソレイユ』)が発売されたのは終戦からちょうど1年後の1946年8月15日である。

ところが・・・。

20140904a

この写真の雑誌は、『婦人文庫』というもので、1946年5月創刊である。
鎌倉文庫という出版社の発行であるが、川端康成が大いに関係しているらしい。
また、川端康成は、小説『乙女の港』の挿絵を中原淳一が手がけていたりしたことから声をかけたのであろう。

なお、手元には、1946年6月号(5月20日発行)の創刊第2号からがある。(写真左上)
つまり、創刊号はおそらくひと月は前であろうから、1946年4月には発行されているはずだ。

創刊第3号(1946年7月号)から、中原淳一の表紙絵に変わっている。右下のものは1949年の4月号(3月発行)なので、少なくとも3年以上は表紙絵を担当していることになる。
画風は初期の『それいゆ』のように、輪郭線をほとんど強調しない柔らかな感じを醸している。

さらに、驚くのは、

20140904b

創刊第2号では表紙絵は担当していないものの、『それいゆ』の連載でも有名な「それいゆぱたーん」を彷彿とさせるファッションページを描いているのである。
タイトルは、「モンペやゆかたで出来たドレス」。
中原淳一得意の、生地の使い回しやちょっとした工夫で新しいモノを作り出す、というやつ。

中原淳一自身は、1945年8月に復員してから、自らが理想とする女性のための雑誌『それいゆ』を出そうとして奔走していた時期であろう。
ただし、タイミングとしては、雑誌に登場するのは『婦人文庫』の方が早く、上で述べたように「それいゆぱたーん」の構想を実験的にこの雑誌で行っていた可能性がある。

実際、写真下の2冊(1949年2月号、4月号)では、表紙絵しか担当しておらず、「それいゆぱたーん」的ページは他の人が担当していた。
これは、既に『それいゆ』が軌道に乗ったことに他ならない証拠ではないか。

しかし、昨年から今年にかけて開催された
『生誕100周年記念 中原淳一展』 (こちらこちら
では、一つも話題になっていなかった。

まぁ、『少女の友』や『それいゆ』・『ひまわり』などに比べれば、仕事としては小さいのかもしれない。(ちなみに、10年前の『没後20年 中原淳一展』の図録も古書店で入手してあるけど、関係する記載がほんの少しの文章で説明があった)

いずれにしても、終戦直後の短い間に自分の雑誌のために試行錯誤をしていたことは、これらをみれば明らかだろう。

なお、茨城県現代美術館で行われた「ひまわりや」代表の中原利加子さんの講演のときに、この雑誌について聞いてみたら、「珍しいですね。原画は失われているので貴重です」といったことを言っていただいた。
そしたら、あっしの周りにいた人が集まってきて「ちょっと見せてください」というので、どうぞどうぞ。
中には「あなたは研究者か何かですか?」なんて聞いてくる人もいた。
ただの、変なおっさんです。ハイ(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.08.29

『村岡花子と「赤毛のアン」の世界展 ~本を道しるべに、少女たちのために~』 (弥生美術館) を観る

20140829a

好きな美術館を選べば、トップ3には入る弥生美術館ではあるが、今までこんなに混雑していることは(あっしがここに通い始めてから)なかった。

さすが、朝ドラ『花子とアン』。NHK(笑)

あっしは、今まで朝ドラというものを視たことがない。だから、今回の企画展において、どのような展示になるのか興味があった。

なにしろ、弥生美術館の展示テーマは主に挿絵であって、人物そのものに焦点を当てている企画を観たことが(あっしは)なかったからだ。

村岡花子は『赤毛のアン』シリーズの翻訳者として知られている…、ようである。というのは、あっしはこの人を知らなかったからだ。『赤毛のアン』シリーズがあることは知っている。昔、TVで名作アニメの放映時間の中にあったことも知っている。(確か、1、2回は視たかもしれないが、アンのしゃべり方があっしには気恥ずかしくて、視るのをやめてしまった覚えがある。本も女の子向けだと思っていたから読んでいなかった)

で、朝ドラはドラマであって、多分途中まで『赤毛のアン』の「ア」の字も出てこないだろうし、要するに、翻訳者の翻訳作品紹介番組ではないわけ。

何が言いたいかというと、展示物(特に1階フロアの)は村岡花子の人生を紹介しているということ。もちろん、翻訳した本も展示されていますが、それは挿絵ではなく、書影だったり開いたページであったり。

いつもなら、注目する画家による挿絵原画だったり、雑誌の表紙絵だったりと、あっしの脳味噌にはわりかし素直に入ってくる。その人の人生は、いわば、おまけ的な簡易な紹介の場合が多く、絵の鑑賞を妨げることは少ない、と思っている。

ところが、今回はそれが逆になっていて、面食らってしまった、というのが本音なんです。

多分、朝ドラを視ている人はものすごく楽しく鑑賞できたのではないかなぁ。
それが証拠に、年配(特に女性)のグループで鑑賞している方々は、
「これ、あれじゃない?」
「あぁ、そうそう。あの場面で…」
なんて会話があちこちで。

2階フロアには、『赤毛のアン』の舞台であるグリーンゲイブルズの風景や、アンの住む家、アンの部屋などのイラストが飾られていたけど、1階に比べれば人口密度が低かった(笑)

やはり、ドラマをなぞっている部分の方が楽しいのかなぁ。


正直、今回はあっしの勉強不足を強く感じたわけで…。
(いつも勉強不足ではあるのですが(爆))


ミュージアムショップでいつものように、弥生美術館の学芸員が参画している「らんぷの本」を購入して退出。(あ、竹久夢二美術館も勿論観ましたよ)

その何日か後、孫の村岡理恵著『アンのゆりかご』という本を買ってみた。
が、まだ読んでない。

もしも、今回の企画展期日までに読み終わったら、もう一度弥生美術館に行くかもしれないなぁ(汗)
そしてこう言うのだ。
「あぁ、これがあの場面の…」
と。 (果たして間に合うか(笑))


『村岡花子と「赤毛のアン」の世界展』 ~本を道しるべに、少女たちのために~
弥生美術館
2014/7/4~2014/9/28

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.08.08

『みて、きいて、ふれる-この夏に知る戦後の労苦』 (平和祈念展示資料館) を観る

20140808a

この夏、昭和館しょうけい館、そしてここ平和祈念展示資料館の、3館連携企画ということでスタンプラリーをやっている。
あっしは知らなかったのだが、最後に来た平和祈念展示資料館でラリー用のシートをもらったので、先の2館はもう一度行かなければならない(笑)

平和祈念展示資料館は、新宿住友ビルの48階にある。
このビルには初めて入ったが、エレベータが全階共通ではなく、例えば48階から52階用でそれ以外は停止しないといった使われ方をしている。だから、別のエレベータに乗ってしまうとたどり着かない(笑)

これら3館の展示内容はそれぞれ分野が異なり、平和祈念展示資料館では、
・召集・入営・兵士の装備
・戦後の強制抑留(特にシベリア抑留)
・海外からの引き揚げ
といったところに焦点が当てられている。

いずれのコーナーにも豊富な展示物があり、実物大ジオラマもある。
(ただし、リアル感としてはしょうけい館の野戦病院の方が上かなぁ…)
また、シベリア抑留の収容所全景のモデルがあったり。

とにかく、シベリア抑留に関しては、悲惨としか言いようがない。
ノルマのきつい強制労働、少ない食料、非常な寒さ。
最初の1年で多くの人が亡くなったという。

人が生きていくためには食料が最も重要であることも説明で示されている。
塊で渡される黒パンを平等に切り分けるための苦労や、それによる仲間間の争い。
飢えをしのぐために防寒着を手放してしまうほどの切羽詰まった状況。

極寒の地では、亡くなった仲間を埋葬することもできず、ただただ遺体に雪をかけただけだという。

また、戦後、大陸に残された人々が日本に帰還することも大変であったそうな。
食料はもとより、医療品もなく、せっかく帰還船に乗ることができても日本の地を踏むことができなかったという人々も多いという。

体験コーナーでは、防寒着を着ることができたり、軍装リュック(約20kg)を持ち上げたりといったことを体験できる。また、行動用ラッパのメロディーを聴くこともできる。ちなみに、某胃腸薬で使われているラッパのメロディーは、食事開始のモノだと言うことが分かった(笑)

この日は、子供向け企画として、これらの展示とは別に用意された実物資料(複製を含む)を使って、多くの説明員が説明に当たっていた。あっしもそれに混ざっていろいろと疑問点を聞いたりした。
たとえば、
・慰問袋は本当に届いていたのだろうか?
  (もちろん最初は届いていたんだろうけど、制空制海権をとられた後はどうだったのだろうか)
・(置いてあった)防弾祈願チョッキの裏地に使われているのが紙布のようであるが?
  (これはたまたま『底のない袋』(青木玉著)の中の「紙を着る」という随筆を読んだばかりだったので)
また、シベリア抑留から帰還する際、ソビエトから新しい防寒着を支給されたといった話も聞いた。(これは抑留中にもソビエトは抑留者に適切な扱いをしていたというカモフラージュのため)
などなど。

なお、合わせて企画展が開催されていて、「酷寒の地 シベリアを描く 早田貫一抑留絵画展」も観る。
茫洋として半ば絶望的なモノを感じさせるが、なぜか筆使いは柔らかい。失った仲間達への鎮魂のためなのであろうか。

先の2館もそうであるが、実物資料を前にすると、本や映像を経由して記憶していたものを凌駕する。
だから、だから、こういった資料館をもっと活用してもらいたい。

(51階は無料展望室なのだが、知らなかったので行かなかった。あぁもったいない(爆))



『みて、きいて、ふれる-この夏に知る戦後の労苦』
平和祈念展示資料館
2014/07/19~2014/08/31

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧