イルカつながり
元日の大洗水族館を出るときに、見つけたパンフレット。

まさか、「イルカつながり」を意識して置いたわけではないと思うが、
『伊勢正三 & イルカ ~二人の物語~』
ですと。
そういや、あっしは未だにイルカの曲聴いてますが、なにか?
なごり雪、雨の物語、海岸通り、いつか冷たい雨が、ちいさな空、・・・・。
生演奏を聴いてみたいなぁ。
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元日の大洗水族館を出るときに、見つけたパンフレット。

まさか、「イルカつながり」を意識して置いたわけではないと思うが、
『伊勢正三 & イルカ ~二人の物語~』
ですと。
そういや、あっしは未だにイルカの曲聴いてますが、なにか?
なごり雪、雨の物語、海岸通り、いつか冷たい雨が、ちいさな空、・・・・。
生演奏を聴いてみたいなぁ。
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引き続き、柳原白蓮関連の本を読んだ。
『白蓮れんれん』(林真理子)よりも12年早く書かれたもの。したがって、使用した資料、取材過程などが異なっている。まだ存命であった関係者の証言なども生かされていると思われる。また、より評伝に近い形態で書かれており、随時、証言や文献が引用されている。柳原燁子(白蓮)の生誕の事情から掘り起こされているので、その点からいえば人生の全体像を把握するのであれば、この本を読むべきか。
ただし、読み手としては、必ずしも時系列の記述になっていないので、うっかりすると話が分からなくなってしまうのが、むむと思ったところもある。
全体の印象は、『白蓮れんれん』よりも、より奔放な性格として白蓮を捉えている。伊藤伝右衛門との再婚を機にさらに歌にのめり込んでいく白蓮が、自分で自分を追い込んでいく女性として書かれている。それは、愛のない生活から愛を求める生活への変貌を遂げていくことと同義であり、宮崎竜介以前にも複数の男との手紙のやりとりで駆け引きがあったことなども露わにされている。
白蓮と竜介の出会いは、本書の中では全体の全体の終わりまで残り1/4あたりからとなる。
竜介自身の証言として、白蓮と初対面したときには特別な感情は無かった、とも書かれていることから、白蓮からのアタックが強烈だったことも推察される。
最初は仕事上の関係であったものではあるが、白蓮にとっては自分の生み出した作品を理解する数少ない男である竜介を希望の星として捉えるのも無理はない、とも思う。九州筑紫では女王と呼ばれていても、愛のない生活からの脱出欲は最早爆発寸前だったのだろう。
したがって、白蓮事件とはいっても、本書ではそこに至る白蓮の心の変化を通して臨場感を高める意味もあったのではないだろうか。
同じ事件であっても、どこからの視点で記述するか。俯瞰する場面、掘り起こす場面の選択によって、できあがる本の印象が大きく変化するところが面白い。
どちらか一方を読んだ人は、もう一方の本を合わせて読んでみるのも一興であると思いますよ(笑)
『恋の華・白蓮事件』
永畑道子著
文春文庫
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こちらでも書きましたが、朝ドラは視ていません。
どこかのHPに、「ヒロインは花子なのに、燁子にも人気があって、Wヒロイン状態だ。これって『アナと雪の女王』と同じパターンだね。」 なんて書かれていたのをみて、この本も読んでみました。
そしたら。
面白いじゃねーか。
小説だから、という注釈がつくからかもしれないけど、柳原白蓮(柳原燁子)の生涯は波瀾万丈。
大正十年に起こした所謂 「白蓮事件」 が皇室や貴族院などを巻き込むスキャンダルに発展してしまったのも、当時の社会情勢というか、華族制度、家族制度、法律からいえば当然のこと。
それをすべて認識しての行動ではなかったようであるが、相当程度は予想してのことのはず。それでも実行してしまった力の根源は、伊藤燁子(当時)と宮崎竜介の結びつきの強さに他ならない。
現代であれば、スポーツ紙や週刊誌、あるいはTVの情報番組の芸能コーナーで見ない日は無いであろう(あっしは読んでないけど)成り行きだから、特別な興味を持って追うことは少ないと思う。
けれども、大正時代は制度の時代。普通に、格や資産の異なる家の間での結婚さえ問題視される。もちろん浮気は姦通罪。北原白秋は告訴され、有島武郎は自殺する、といった事件の元になる法律である。
元々、伊藤伝右衛門との再婚でさえ華族と九州の石炭富豪という不思議なものである。実際は複雑な家族構成を持っていた伝右衛門に燁子はだまされた思いであると同時に、不信という言葉が芽生えたであろう。事件の根幹は既にあったといっても良く、なまじ有名であることがその身を縛ることになってしまったのも加わる。
とはいえ、伝右衛門も燁子の意に沿うように家を改築したり、別荘を建てたり、名士のサロンには自由に行かせたりと気は遣っていたようであるから、全くの悪者ということでもない。
結局、無かったモノは、信頼と育む愛、という結婚生活に必要な二つの柱だったのだろう。(あっしには分からんけど(笑))
そこに現れた宮崎竜介という人物が、柱を失っている燁子が命をかけたともいえる歌や戯曲の側から心を掴むという離れ業をやってのけたともいえる。(言い方はあんまり良くないかもしれないけど)
さらに、数は少ないにしろ、良い仲間に恵まれたこともあるだろう。
絶縁状を突きつけられた伝右衛門は、小説の中ではこうなることを悟っていたが示唆されている。本当かどうかは分からない。しかし、姦通罪で訴えることもせず、事件を収束させる方向で動いたことを考え合わせると、それはそれで自分の立場も考えたのであろう。
だけど、伝右衛門も結婚直後から予感していたのかもしれない。自身も、信頼と育む愛、という柱を失っていることに気がついていたはずだからだ。それに気がつかないほどの凡人ならば、炭鉱王になる頭脳も持ち合わせていないはずだから・・・、と思うが、世の中そうそううまくはいかないのですね。
ただ、引き際についてだけは、わきまえていた、と。
なんだか、伝右衛門の方に感想が引っ張られちゃったなぁ(笑)
なお、この本は白蓮と竜介の間に交わされた書簡が何通も登場する。
読んでいるこちらが赤面するほどの内容であるが、文字とそれらが往復する時間が互いに互いの愛を深めていくことを知らしめる。
それに比べれば、現代はいかに軽薄なことかと、チクリとされるのだ。
それと、本書には、村岡花子という名が登場するのは、気がついただけでは1カ所しか無かったです。
『白蓮れんれん』
林真理子著
集英社文庫
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所謂ファッション雑誌の表紙を飾るような写真といえば、ひと目でそれに釘付けにされてしまうような魅力を持っていなければならない。
それが芸術かと言われると違うような気もするが、実際のところ、眼から脳味噌に抜ける感覚としては同じものなのではないか。
ここに来る直前に、『エドワード・スタイケン写真展』を観たのだが、そこではモノクロのポートレイトが静に、力強く、しかも色っぽく眼に飛び込んできた。
またもや、アーウィン・ブルーメンフェルドという名は知らなかったが、そんなことはどうでもよろしい。
戦中戦後の『ヴォーグ』などの表紙が展示されていたが、とても混乱した状況の中で発行された雑誌とは思えない。雑誌の持つ意志と、それを支える写真家のタッグを見るようである。
しかし、色鮮やかな表紙(とそのヴァリエーション)が、先のモノクロポートレイトとは逆に力を感じさせない。というか、何か考える余地を与えないままに刺さってくる。そう、鑑賞するというよりも、突き刺さる。
良い悪いは別として、ファッション雑誌の表紙に必要な表現力を持っているということなんだと思う。
それ以外の作品も工夫が凝らされているものが多い。
具体的には、先の写真展の看板でも感じた「美+想像の美」というもの。被写体そのものが持つ美しさと、鑑賞者が持つ理想の美しさとの組合せである。あえて被写体(それは主に女性であるが)そのものの美しさを減じても、それを補う想像上の美があれば、全体として、より高次元の「美」ができあがるのだ。
極端な話、磨りガラスの向こうにぼんやりと姿が写っているだけでも、見方によっては背筋が痺れるほどのものが脳味噌の中で駆け回るのである。
そういったある種実験的な写真はさらに時代を遡ったモノクロ写真に多い。マン・レイのようなソラリゼーションを用いたものや、意図的に被写体を歪ませたり。
今回、意図して二つの写真展を同じ日に観てみた。
共にファッション誌で活躍した写真家の作品であるが、まったく別のことを感じる不思議。
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世田谷文学館には何度か行ったことがあるけど、世田谷美術館には初めて足を運んだ。
桜が開花してすぐだったが、えらく寒い日で、東急田園都市線の用賀駅から歩いていても、体が温まらなくて参った記憶がある。
そんな陽気だったのに、砧公園では花見客が沢山いたのが驚きだった。
さて。
エドワード・スタイケン。
例のごとく、全然知らない。
それに、写真系の企画展にはあまり興味をそそられないのでなおさらであった。
だけど、この写真のような、何とも言えない技巧を凝らしているようなものを見て、ビビッときてしまったのだ。
エドワード・スタイケンという人は、所謂ファッション系写真を主に撮っていたらしい。
たとえばこれは、モデルの顔を直接我々に伝えるのではなく、模様のある紗をかけることにより、我々の中にある美の追究心のようなものを引き出し、モデルそのものの美しさに想像の美しさを付加する役目を持たせているのではないか。
「ルーブルで見るから芸術なんだよ。
『ヴォーグ』をルーブルにしよう」
という言葉を残している。
強烈な皮肉である。
場所であったり、金額であったり。
そういった、見る対象とは直接関係ないコトが、我々の「眼」を曇らせてしまったり、眩しがらせてしまったりしているのは否めない。
おそらく、発表媒体自体を美術館と同じ土俵にすることによって、美術館における芸術未満をあぶり出すことも意図している言葉なのだろう。
展示されている写真は、どれもモノクロ。
でも、ほとんどすべてが色っぽい。
それは女性がモデルである写真はもちろんなのだが、男性であってもそうだし。(たとえば、ガーシュウィンの写真なんて、すごい)
靴だけの写真だって、そう。
目からウロコ。
あっしなんかのへっぽこ写真なんて、即ゴミ箱行きですよ。
写真そのものの表現力を知る、威力を知る、という意味では、観なければ分からないという、そのこと自体を再認識した次第。
実はこの日、この企画展を観た後、恵比寿の東京都写真美術館でもファッション系写真展を観ることにしていたので、追って。
『エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影 1923-1937』
世田谷美術館
2013/01/26~2013/04/07
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えー、っと、予告編から半年以上経過(汗)
どうもすいません。
思えば、中原淳一を知ったのが、昨年の5月ごろでした。
それから今年の前半まで、いろいろと資料を買い漁ったり、いくつかある企画展を観てみたりと、していましたねぇ。
全く知らない世界。
中原淳一は、女性がより良く生きるための手助けを、絵や服飾や生活の方法などを示してきた。自らがそのための雑誌を立ち上げたり、実際に実践するための店舗をやっていたときもある。
それが現代にもつながっているか…、と考えると、よく分からない。
しかし、中原淳一が活躍していた時代が全く存在しなかった、と仮定してみると、現在の風景がもっと先にならないと出現しないんだろうなぁ、とは思える。

当時、服飾は、いわゆる出来合いのものではなく、布を買って家庭で縫ったり、専門の業者に依頼していた。なので、雑誌の特集では「型紙」が綴じられていたりしたそうだ。もちろん中原淳一も洋服を縫ったり、型紙を発表していて、大変な人気だったようだ。
で、これは当時の服を再現したもの。
会場いっぱいに、数々のデザイン画が掲げられているが、どれもこれもカッコイイ。
中原淳一のティーンエイジャー向け雑誌『ジュニアそれいゆ』では、小さな部屋をどのように使うか、といった特集もあり、当時の雰囲気を再現した部屋があった。

3畳くらいのスペースに小さなテーブルに椅子、本棚が三つ。
どうやって寝るのか分からないけど、本が沢山あることに目がいってしまう。
元々、中原淳一は、子供の頃から良い物語と接して欲しい、と考えていたから、それを反映させたものなのだろう。
そういう名作物語に描いた挿絵のドレスを再現したものも展示されていた。

説明書きを撮らなかったので違っているかもしれないが、おそらく『七人のお姫様』という、白雪姫、人魚姫などを中原淳一が1冊にまとめた本の表紙を飾るドレスのようだ。
もう、そういう時代ではない、と言われてしまえばそうなのだが、ゲームやネットが作る世界が人間を形づくる年齢にとって相応しいのかどうかと、今一度考えるべきではないのだろうか。
展示とは関係ないけど、そんなことを考えてしまった。
さて、

会場近くには、芸能人や関係会社から、お祝いの花が届けられていた。
展示会場の最後には、沢山の関係者が書いた(あるいは描いた)色紙が沢山並べられていて、未だに影響を受けている人が多いことをうかがわせる。
それは、中原淳一が目指していたもの、そして、そのために描き、作り出していたものが、多くの人の生き方に入りこんでいることの裏返しなんだろう。
きっと、そうなのだ。
ところで。
借りた音声ガイドのヘッドフォン装着する際、いきなり壊してしまい交換するハメになったことは、あっしと係のお姉さんだけが知っている…。けっして、あっしの頭が大きかったり、耳のカタチがトンガっていたりしたわけではない(笑)
『生誕100周年記念 中原淳一展』
日本橋三越
2013/02/06~2013/02/18
なお、この記念展は既にこちらで書いたように巡回していますが、横浜のそごう美術館も行きましたので、追ってアップします。(いつか(笑))
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美術館や博物館に行くと、展示されている作品や、その作品の作者に興味が生まれる。
興味はその場限りかもしれないし、後々まで気になる存在にこともある。
先月、国立新美術館で始まった『アメリカン・ポップ・アート展』で観たトム・ウェッセルマンは、後々まで気になった口。
この展示では、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、クレス・オルデンバーグ、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタインなども作品の展示があって、ウェッセルマンに比べれば点数も多かったような記憶があるけど、衝撃度からすれば、あっしにとってはウェッセルマンがダントツだった。
展示会の図録はもちろん買ったんだけど、もっと作品を観てみたくて、書店古書店をまわってみたけどほとんど見かけない。
ようやく見つけたのは古くて大ぶりの一冊。(縦34cm×横30cm !)
重い(笑)
値段もそこそこする(爆)
さらには、英語(涙)
でもまぁ、半分気絶しながら古書店のレジに並ぶ。
軽くなった財布の、何万倍の重さが肩に食い込むのでありました…。
会場で見た「Seascape Dropout」という作品は、この画集よりも新しい作品なのでありませんでしたが、Great American Nude や、Bathtub Collage などの一連のシリーズものがたくさん掲載されていて楽しい。
次は前にも書いた、熊田千佳慕の画集。
大きさは少し小さくなるけど、厚みは4cm !
実物の絵は、気が遠くなるほどの細かい点を積み重ねたもの。
この画集はじっくりと観るためではなく、神経がクサクサしているときにパラパラとめくるのがいいんじゃないでしょうか。いや、絶対そうだ。
自然を愛おしく思う熊田千佳慕の目と筆を通して、余計な思考をどんどん削ぎ落としていける感じがするのだ。
最後は今日買ったばかりの「Audrey」
あっしにとっての、永遠のアイドルなのである。
この本が出たのは7月なんだけど、ビニールがかかっていて中身が確認できなかったので、そのときは手が出なかった。
先日、たまたま見本品があって、じっくりと見ることができたんだけど、大抵の写真はどこかで見たことがあるものばかり。でも、でも、それでも欲しくなり、ようやく購入。
貯まっていたポイントで(笑)
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久々に、東京週末フリーきっぷを使って、横浜へ。
『生誕100周年記念 中原淳一展』を観に。
これは前に日本橋三越で開催されていたものの巡回展なので、内容はほとんど変わっていないんですが。
(まだそれの観覧記もアップしてないなぁ(汗))
前にもいろいろグッズを買ったけど、またなんやかやと買ってしまった(笑)
その後は、新橋のPanasonic汐留ミュージアムで、
お茶用の焼き物もいいけど、着物に釘付けになってしまった。
そのビルの隣にある旧新橋停車場「鉄道歴史展示室」で、
生活の様子がにじみ出るミニチュアが、思いの外面白い。これはアタリ!
と、はしご。
満足満足。
詳しいコメントは、いつになるか分かりませんけど。
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いよいよ2013年の分。(遅いって(笑))
松もあけた後の休みの日、東京週末フリーきっぷを使って長駆川崎へ。
新宿から小田急線で向ヶ丘遊園駅。
歩いて20分くらい。
途中で日本民家園というのがあったけど、そこを通り過ぎて林の中を進んでいくと、階段が待ち受ける。
雲ひとつ無い空に、誰が見ても岡本太郎と分かるモノが浮かぶ。
えー、それはそれとして。
本題は小野佐世男なんですが、常設展の「岡本太郎の少年時代」というのを観なければたどり着かないんです(笑)
本当は、岡本太郎にはあまり興味がなかったんですけど…。
開館時間からあまり時間が経っていなかったんで、常設展入口の先にはホンの数人がいるのみ。
早足で通り過ぎるのもナンなんで、じっくりと岡本太郎の作品を観ていくと、これがけっこう面白い。
実は以前に岡本太郎展を国立近代美術館で観ていたのだが、観覧状況が良くなかったのであんまり印象が残っていなかったりする。
ところが、こうやってじっくり見ると、主に曲線で構成された独特の線、造形に圧倒される。
それも少年時代から一貫しているのだから、ブレなさが際立つ。
また、岡本太郎の発言も面白い。
順路の途中で本人がしゃべるビデオ映像が流れていたのだが、これまたグイグイと惹き付けられる話で、小一時間モニターの前で聞き入ってしまった。
思いの外どっぷりと世界に浸ってしまい、多少ヘロヘロで漸く小野佐世男のコーナーへ。
コーナーといっても場所はたっぷり。
あっしは今回の企画展を夏目房之介氏のブログで知ったのだけど、毎度のように誰だか知らない人(爆)
風俗画、挿絵、表紙絵、漫画、などなど。
独特のバタ臭い顔立ちに豊満かつエロティックな姿。
ちょっと言葉では伝えにくい画風だなぁ。
最初はびっくりするけど、数多くの絵を観て世界に入りこむと癖になる。
良くも悪くも、この洗練とは対極にある。
これはこれで戦前から戦後しばらくにかけてマッチしていたんだろう。
笑っちゃうけど、ホント、癖になりますよ。

そうそう。
駅前から延びる歩道には、こういったポスターがあちこちに貼られていました。
町をあげて協力している感じが滲んでいます。
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ということで、今年も行ってきました。27日の土曜日に。

これはすずらん通り沿いに並んでいる、各出版社等の出店。
靖国通り側や、靖国通りに抜けるビルの谷間の道には主に古書店の出店。
それは「第53回東京名物・神田古本まつり」での。
昼過ぎに到着。
早速、すずらん通りの出店を一回り。
いわゆる棚ずれ品や処分品を5割引とか、XX円均一なんかで並べている。
あっしは例によって、理学工学系の本を探すと共に、このところ興味のある美術系のものも。
まずは一回りしてどこにどんなものがあるかを頭に入れて、2周目3周目で購入という寸法。
ただね。
もうすごい人なんですよ。
人気のある出版社の出店なんか、二重三重に人がいて、ワゴンにどんな本があるか分からないんですから(笑)
しかも、そういう場所ではは中々移動してくれないんで…。
なので、ベテラン(?)の人なんかは、肩とか肘をグイグイ入れてきて、どかしにかかる(爆)
そんな感じなので、一周するだけで疲れちゃうん。
ところが、今回はあまりめぼしいものが見当たらない。
途中で本とは関係ないトートバッグ500円也が気になったのだが、残念ながら2周目には無くなっていたり。
それでも1冊のみ大学教科書を購入。(3200円が500円)
引き続き、古書まつりを回る。
あっしは古書が苦手だったけど、最近はあまり気にならなくなった。
というのも、たまに買う美術系の図録なんて、会期中に入手しなければ、古書店に出回るまでなかなか手に入れにくいんで。そういうことを積み重ねて。
で、今回の収穫はこれ。

1.中原淳一画集 /講談社 /(3900円)
2.中原淳一画集・第二集 /講談社 /(3900円)
合わせて、5000円
3.夢二美術館 第1・2・4・5巻 /学研 /(各1900円)
各672円
4.オードリー・ヘプバーン:私のスタイル展(2000年)図録 /朝日新聞社 /(?)
1200円
5.ビアズリー展(1983年)図録 /東京新聞 /(?)
800円
6.蕗谷虹児展(1991年)図録 /朝日新聞社 /(?)
1000円
7.現代量子力学の基礎 /オーム社 /(3200円)
500円
「中原淳一画集」は今までも目を付けていて、ある古書店では1冊5000円の値付け。なので中々手が出なかったのだが、今回古書祭では同じ本(第一集)が6000円を超える値付けで出しているところもある中、第一集・第二集合わせて5000円で出ているのを見つけて、思わず購入。
これ、今回いちばんの収穫かも。
(なお、第一集は復刻版が出ていて5250円です)
「夢二美術館」は5冊シリーズのうちの4冊。
岩波ホールから2本くらいの横道に入ったところに新しい古書店(笑)ができていて、開店セールで2割引。
まとめて並んでいたので購入。
実は第1巻の「宵待草のうた」は既に入手済みだったのだけど、程度がよかったので。
「オードリー・ヘプバーン展図録」は、実際に展覧会に足を運んでいた。
その時図録を入手したかどうか今では記憶にないが(もう10年以上前のこと)、なつかしくて。
このときのことをあっしのメインHPに書いたことを思い出した。
「ビアズリー展図録」は、高畠華宵の絵(特に線画)がビアズリーの影響を受けているらしい、という情報があって。
本当にそうなのか、わからんけど。
「蕗谷虹児展図録」は、これも既に入手済み。
ただ、その時の購入値段よりも大分安く、しかも程度がいい。
さらに、当時の展示会パンフレットが挟み込まれているので。(新宿の小田急で開催されたもの)
実は、上のビアズリー展の図録にもパンフレットが挟み込まれていた。
これだけ買うと、さすがに重い。
さて、ここからはびっくりしたこと。
はてさて、どこがびっくりでしょう。

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