2015.03.22

『一刻も早く! 戦場からの患者搬送』 (しょうけい館) にて、三角巾の使い方を教わる

お茶の水の本屋に立ち寄る前に、九段の昭和館でやっている『戦後70年 よみがえる日本の姿』という企画展と常設展を見た後、受付でパンフレットを見つけて、しょうけい館でも新しい企画展をやっているとのこと。

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昭和館から書店街に行く途中(というか昭和館から横断歩道を渡ればすぐ)に「しょうけい館」がある。
(入口は表通りにではなく、小道を入ったところにあるので分かりにくい)

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『一刻も早く! 戦場からの患者搬送』

というタイトルで、戦地での傷病者を如何に治療、後方への搬送するか、といった内容となっている。
具体的には、

1.患者集合点 : 傷病者が最初に集まる指定場所。臨時の包帯所となる場合もある
2.包帯所 : 応急手当をしたり、野戦病院への搬送拠点となる
3.野戦病院 ; 前線に近く、本格的な治療が行える
4.兵站病院 : 市街地にある病院
5.転地 : 患者自動車・患者飛行機・患者列車などを使用
6.故郷へ : 内地への帰国

といった順番でそれぞれパネルと説明書きがあった。
戦地では戦うことだけが注目されがちだが、怪我や病気などで戦闘に参加できなくなった兵士を速やかに治療し、後方へ送るかも重要な問題である。おそらく、補給と共に二本の柱といったところなのではないか。

あっしが展示場所に入ったとき、たまたまギャラリートークの3/4が終わったあたりで紛れ込んでしまった。

で、その残りの1/4は、応急治療法に関する当時の資料に関して。

その中には、今と違って、心臓が止まっていれば「死んでいる」、心臓が動いていれば「仮死」、意識があれば「大丈夫」、といった分類みたいなものだったという。

また、人工呼吸に関しては、主に溺れた人に対して行うもので、一度始めたら5時間は続けなければいけない、なんて決まりがあったそうだ。 (ただし、実際に5時間続けた人の話は聞いたことがないそうだ)

そのあと、応急処置法の中に書いてある「三角巾の使い方」の話になり、どういうことか、トークを聞いていた人たちに三角巾が配られた(笑)

続いて登場した女性が、看護師もやられたいた(?)研究者の方で、三角巾の使い方を研究されているそうな。
そのために、何十万もする書物を自腹で(研究費でまかなえないので)買うほどの人。
今では腕を骨折したら、それ用の釣り具があるから病院でも三角巾を使うことはなくなっているらしい。

配られた三角巾はこれ。

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(クリックすると別ウィンドウに拡大表示します)

なんと、しょうけい館オリジナル。
下側に人物が描かれているのが分かるでしょうか。
よくよく見ると、多くの人が三角巾を使っているのです。
しょうけい館オリジナルではありますが、この絵の部分は当時実際に使用されていた三角巾の絵柄をトレースしたものだそうです
なぜ、このような絵柄が描かれているのかというと、理由があります。

例えば、左側にいる二人の人物を拡大してみると、

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右側の人物は、右目から右耳にかけて三角巾を使っているようです。 (二)
左側に人物は、、右膝(五)と左手(七)。

というように、使っている場所のすぐそばに漢数字が書いてあります。
実は、この数字が三角巾の巻き方(使い方)を示しているのです。
(別の解説書に細かい巻き方が書いてある(らしい))


中央下少し右の人は、左足を骨折しているようですね(十六)
副木を留めるために使っているみたいです。

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その上にいる人物は、よく見ることのある腕骨折の人のようです(十七)
手を吊っています。
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少し右側の人も手を吊っていますが、骨折ではなく、手の部分も覆っていることから、手の甲を負傷しているのかもしれません(二十四)

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あっしも、他の人とペアになって、お互いに手を吊ったり、太腿を止血したり(笑)

三角巾がなければ、風呂敷でも代用できるので、一度自分で試してみるのもアリですよ。

使わないで済めば、それが一番いいことなんですけどね。

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2015.01.05

元日の大洗水族館へ

昨年、一昨年に続き、元日は大洗にある水族館へ。
何故かといえば、入場料金が半額になるから・・・。

さて。

館内を見て回ろうとしたら、いきなり、

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アシカの書き初めということで、「育毛」「責任」「美白」「婚約」「整腸」などという、およそ関係ないだろう単語が採り上げられていた。

初笑い、だ。

多くの人は、あまり気にしないで通り過ぎてしまっていたから、もったいないなぁなんて思ったよ。

水族館でいつも気になるのは、やっぱり「クラゲ」。
クラゲはいいな。癒やされる。

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中にはこういったピカピカ光るのもいる。
自分で発光しているのでは無く、照明の反射だそうで、その具合によって七色に変化しながら泳いでいるから、みんな立ち止まって見入っている。

あっしは、何度も何度も行き来しつつ、他の所を見てもまたここに戻ってきて暫く見たりしていて、多くの時間をこのくらい空間で費やしていた。

午後2時くらいに到着したので、アシカ・イルカショーは最終回を見る。

イルカが登場したときは、『なごり雪』を歌いながら出てきたのでとてもビックリした。(←嘘です)

やっぱり、ジャンプは見応えがありますね。

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最後にこれを。

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(実際はこんなに早く変化はしていません(汗))

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2014.12.30

インナーイヤー型ヘッドフォンの買い換え

以前、iPod用のインナーイヤー型ヘッドフォンとして、オーディオテクニカのATH-CK7という型式のものを使っていた。
それまでは数千円のものを使っていたのだが、ATH-CK7にしてみたら、モノの見事に音が違って聴こえたことに驚いたことを覚えている。

4〜5年使っていたら、片耳の音が出なくなり、おそらくはプラグの付け根のケーブルが切れたのだろうと思うけど、応急的にまた数千円のヘッドフォンを使っていた。

まぁなんですね。
数千円のヘッドフォンの音は、こんなモンだと思えばこんなモンだし、機種にもよるけど、低音はすかすかだし、だから逆に高音がシャカシャカに感じるし、音量を大きくするとボンつくというか締まりの無い音になるし。

我慢我慢と思っていたけど、我慢できなくなって、新しいヘッドフォンを物色してこれを選んだ。

オーディオテクニカのATH-CKR10

もともと、ATH-CK7はハウジングがチタンでできているという所が気に入っていたので、同じ材質を使っているのと、実際に聴いてみた印象で決定。
値段からすると、CK7の1.5~2倍くらい(涙)

だけど、ドライバが大きく、プッシュプル構成になっているなど、音質向上策も採られているとのことで、納得の音に感じた。
低音は締まっていてだるくなく、高音も抑制が効いていてすっきりとしている。

レジで注文すると、出てきたのが・・・。

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なんと、立派な箱入りですよ。(実は、収納用の合成皮革の小箱も同梱されている)
箱いらないから安くしてほしいよ(笑)

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実物は、ドライバが大口径化されているので、ここだけ見ると大きく感じるが、耳に突っ込んでしまえば見えないから関係ない。重さもあまり感じないので、着装状態もしっくりきているようだ。
ただ、ケーブルも太くがっしりしているので、取り回しやケーブル自体の摩擦音が気になることがあるので、ポータブル用として購入を考えている人は参考にしてください。

しかし。
iPodに入っている同じファイルを聴いてみても、音の差は値段以上の差に思えるほど。10倍以上良い!
上記の点を差し引いても買う価値あります。

なので、さらに音を良くするべく、非圧縮ファイルに移行しようとライブラリの再構成中。
(これが結構面倒くさい)

現状、ハイレゾ音源データは持っていないのだが、一応それに対応できるように、ちょこちょことした工作を実行中。
そのうち公開します。

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2014.11.11

先週のはなし

先週東京に出かけたところ。

1) 『手塚治虫の美女画展』 (吉祥寺 GALLERY KAI)

2) 『特別展 輝ける金と銀 -琳派から加山又造まで-』 (恵比寿 山種美術館)

3) 『こどもの発達と成長』 (弥生 東京大学医学部・医学部附属病院 健康と医学の博物館)

4) 『鋼の超絶技巧画報 髙荷義之展 / 生誕130年記念 再発見!竹久夢二の世界 【後期】ボヘミアン・夢二』 (弥生美術館 / 竹久夢二美術館)

記事化予定は未定です(汗)

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2014.09.21

『白蓮れんれん』 (林真理子著) を読む

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こちらでも書きましたが、朝ドラは視ていません。
どこかのHPに、「ヒロインは花子なのに、燁子にも人気があって、Wヒロイン状態だ。これって『アナと雪の女王』と同じパターンだね。」 なんて書かれていたのをみて、この本も読んでみました。

そしたら。

面白いじゃねーか。

小説だから、という注釈がつくからかもしれないけど、柳原白蓮(柳原燁子)の生涯は波瀾万丈。
大正十年に起こした所謂 「白蓮事件」 が皇室や貴族院などを巻き込むスキャンダルに発展してしまったのも、当時の社会情勢というか、華族制度、家族制度、法律からいえば当然のこと。
それをすべて認識しての行動ではなかったようであるが、相当程度は予想してのことのはず。それでも実行してしまった力の根源は、伊藤燁子(当時)と宮崎竜介の結びつきの強さに他ならない。

現代であれば、スポーツ紙や週刊誌、あるいはTVの情報番組の芸能コーナーで見ない日は無いであろう(あっしは読んでないけど)成り行きだから、特別な興味を持って追うことは少ないと思う。
けれども、大正時代は制度の時代。普通に、格や資産の異なる家の間での結婚さえ問題視される。もちろん浮気は姦通罪。北原白秋は告訴され、有島武郎は自殺する、といった事件の元になる法律である。

元々、伊藤伝右衛門との再婚でさえ華族と九州の石炭富豪という不思議なものである。実際は複雑な家族構成を持っていた伝右衛門に燁子はだまされた思いであると同時に、不信という言葉が芽生えたであろう。事件の根幹は既にあったといっても良く、なまじ有名であることがその身を縛ることになってしまったのも加わる。

とはいえ、伝右衛門も燁子の意に沿うように家を改築したり、別荘を建てたり、名士のサロンには自由に行かせたりと気は遣っていたようであるから、全くの悪者ということでもない。

結局、無かったモノは、信頼と育む愛、という結婚生活に必要な二つの柱だったのだろう。(あっしには分からんけど(笑))

そこに現れた宮崎竜介という人物が、柱を失っている燁子が命をかけたともいえる歌や戯曲の側から心を掴むという離れ業をやってのけたともいえる。(言い方はあんまり良くないかもしれないけど)
さらに、数は少ないにしろ、良い仲間に恵まれたこともあるだろう。

絶縁状を突きつけられた伝右衛門は、小説の中ではこうなることを悟っていたが示唆されている。本当かどうかは分からない。しかし、姦通罪で訴えることもせず、事件を収束させる方向で動いたことを考え合わせると、それはそれで自分の立場も考えたのであろう。

だけど、伝右衛門も結婚直後から予感していたのかもしれない。自身も、信頼と育む愛、という柱を失っていることに気がついていたはずだからだ。それに気がつかないほどの凡人ならば、炭鉱王になる頭脳も持ち合わせていないはずだから・・・、と思うが、世の中そうそううまくはいかないのですね。
ただ、引き際についてだけは、わきまえていた、と。

なんだか、伝右衛門の方に感想が引っ張られちゃったなぁ(笑)

なお、この本は白蓮と竜介の間に交わされた書簡が何通も登場する。
読んでいるこちらが赤面するほどの内容であるが、文字とそれらが往復する時間が互いに互いの愛を深めていくことを知らしめる。
それに比べれば、現代はいかに軽薄なことかと、チクリとされるのだ。

それと、本書には、村岡花子という名が登場するのは、気がついただけでは1カ所しか無かったです。

『白蓮れんれん』
林真理子著
集英社文庫

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2014.09.16

『闘』 (幸田文著) を読む

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あっしが幸田文を知ってから、この文庫を見つけるまで結構時間がかかった。

幸田文は今でもいくつかの文庫は入手が容易で、大抵の書店では棚に何冊かは揃っている。でも、この『闘』はブックカバーの後ろ側についているラインナップからは削除されていて、つまり、もう絶版になっていたのだ。

良く行くいくつかの古書店でもなかなか見つけられなかったわけ。

おそらく、題材が古いこともその一因なのではないかと思う。

『闘』のメインテーマは、結核療養患者とその周辺人物の織りなす人間模様とでも言いましょうか。死という雰囲気の漂う専門病院の病棟では、病気と人間の闘いが繰り広げられていて、それに勝つ人、負ける人、どちらなのか分からない人、それぞれの模様が活写されている。

もはや、結核は国民病でもなく、死の病でもない。だけど今でも時たまTVで感染者が出たといったニュースが流れるから根絶された病気ということでもない。そういう意味では題材が古く、時代に合わなく、病気そのものさえ軽く見られることがあるから、復刊されないのかもしれない。

しかし、現代でいえば、病死の三大要因である癌がそれにあたるといえるのではないだろうか。
癌だって少し前は、死と直結した病であったはずであるが、医療の進歩によって、まだまだ時間はかかるであろうが、結核克服の辿った道のようになることが夢ではない。

さて、あらすじはというと。

いきなり結核専門病院に来て、大喀血してしまう人から話は始まる。
この人が話の主人公かと思えば、あっさりと亡くなってしまう。

全12章からなるこの本では、各章で異なる患者の闘病記の体裁をとっている。そして、全章を通じて登場するのが別呂省吾という10年もこの病院で最も長く療養している患者である。強い意志を持ち病気と対峙する男であり、この本の通底音といえる。

省吾は多くの患者の闘病の様子を自室に流れてくる噂を批評する。いずれも省吾にとって、他人の闘病はほんの一瞬の出来事でしかない。自らの強さを恃む省吾は度々の自身の危機にもその都度立ち向かい、ほんの少しの差で病に勝ち続ける。病院の人々は、そんな男の姿に賞賛を送るが、結局はほんの少しの差で負け、物語は終焉となる。

闘病は患者のみの話ではない。それを支える医療関係者、さらには患者の家族にも大きな負担をかける。おそらく、家族の部分については幸田文の実弟成豊が結核で亡くなったことも念頭にあるだろう。小説『おとうと』における看病記の部分にだぶる部分も垣間見える。患者家族の内部事情についても詳しく書かれる部分が散見される。つまり、闘病記としてはすべてが明白になっていなければ完結し得ないと思っていたからだと思う。

また、患者にとっていえば、病院における生活は、健常者の生活時間と同じではないことが示される。これには目が開かれた思いだった。闘病中の時間は患者にとっては健常者と同じ時間が流れているのだが、健常者にとっていえば患者の時間は止まっている時間なのである。長ければ長いほど健常者が費やした時間に追いつくことが難しくなる。せっかく回復したのにもかかわらず、退院直前に自殺してしまう患者の話にも1章を割いている。

人間は自分の考えていることさえ十分には把握できない。まして、他人のことなぞその十分の一にも満たなくたって不思議ではない。そういう点では、この本はある程度視点を分散し、多方面から闘病の実態をわかるように配慮しているともいえる。

そしてまた、こう書かれている。

「今までの平和は、こんなにも薄手な基盤の上に築かれていた」

平静な生活は薄氷の上にある、ということを今一度考えるべきである。
一度氷が割れれば、極寒の水がら這い上がることは至難の業となることもあるのだ。

『闘』 幸田文著
新潮文庫

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2014.09.10

村岡花子の『婦人文庫』寄稿

『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を読み終わったとき、何か引っかかったことがあったので、それが何か思い出そうとしていた。

それがこれだった。

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前々々回の記事で取り上げた『婦人文庫』という雑誌である。
その昭和24年(1949年)2月号の下に、

「夫婦生活の明暗の岐路  村岡花子」

という文字が見える。村岡花子の記事が載っていることを、特に示しているのである。

手持ちの他の号では、そういう書き方はされていないし、目次を確認しても花子の記事は見当たらない。
(ただし、持っていない号ではあるのかもしれないけど)

こういう、ひとつの情報(この場合は『アンのゆりかご』を読んだこと)から、思いもかけなかった繋がりを発見することができるとき、なんというか、アドレナリンがドバドバ出るようか感じがしますね。単なる情報の散らばりが連結する面白さ。

さて、記事の内容はというと、

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妻が夫の手帳の中に浮気の証拠を見つけてしまったとき、どういう対応をするとどうなるか、というものを2つのパターンで書いている。花子は、その時の妻の対応は一瞬で決まるものであり、それが大きくその後の人生を変えてしまうことがある、と結んでいる。

あっしにはよく分からないけど、今のTVドラマだって似たようなもんだろうなぁ、なんて思う。

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花子は明治26年(1893年)6月生まれであるから、このとき55歳。
この頃の雑誌は紙質が良くなく印刷も粗いので、写真の姿が年相応なのか分からんのですが、ふっくらどっしりという貫禄を感じさせますね。

花子の 『赤毛のアン』 が、まだこの世に出ていない頃の話である。

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2014.09.04

あまり知られていない中原淳一の仕事 『婦人文庫』

中原淳一といえば、

・少女の友
・それいゆ
・ひまわり
・ジュニアそれいゆ

といった雑誌の仕事や、ファッションそのもの、ファンシーグッズなどの先駆けなどで知られている。

『少女の友』は大東亜戦争に突入する前年に軍部からの圧力で雑誌から降板している。
したがって、戦後は『それいゆ』から始まったということになる。

『それいゆ』は、中原淳一が全面的に手をかけて出版した最初の雑誌であるから、確かにその通りであろう。
ちなみに、『それいゆ』(創刊号では『ソレイユ』)が発売されたのは終戦からちょうど1年後の1946年8月15日である。

ところが・・・。

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この写真の雑誌は、『婦人文庫』というもので、1946年5月創刊である。
鎌倉文庫という出版社の発行であるが、川端康成が大いに関係しているらしい。
また、川端康成は、小説『乙女の港』の挿絵を中原淳一が手がけていたりしたことから声をかけたのであろう。

なお、手元には、1946年6月号(5月20日発行)の創刊第2号からがある。(写真左上)
つまり、創刊号はおそらくひと月は前であろうから、1946年4月には発行されているはずだ。

創刊第3号(1946年7月号)から、中原淳一の表紙絵に変わっている。右下のものは1949年の4月号(3月発行)なので、少なくとも3年以上は表紙絵を担当していることになる。
画風は初期の『それいゆ』のように、輪郭線をほとんど強調しない柔らかな感じを醸している。

さらに、驚くのは、

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創刊第2号では表紙絵は担当していないものの、『それいゆ』の連載でも有名な「それいゆぱたーん」を彷彿とさせるファッションページを描いているのである。
タイトルは、「モンペやゆかたで出来たドレス」。
中原淳一得意の、生地の使い回しやちょっとした工夫で新しいモノを作り出す、というやつ。

中原淳一自身は、1945年8月に復員してから、自らが理想とする女性のための雑誌『それいゆ』を出そうとして奔走していた時期であろう。
ただし、タイミングとしては、雑誌に登場するのは『婦人文庫』の方が早く、上で述べたように「それいゆぱたーん」の構想を実験的にこの雑誌で行っていた可能性がある。

実際、写真下の2冊(1949年2月号、4月号)では、表紙絵しか担当しておらず、「それいゆぱたーん」的ページは他の人が担当していた。
これは、既に『それいゆ』が軌道に乗ったことに他ならない証拠ではないか。

しかし、昨年から今年にかけて開催された
『生誕100周年記念 中原淳一展』 (こちらこちら
では、一つも話題になっていなかった。

まぁ、『少女の友』や『それいゆ』・『ひまわり』などに比べれば、仕事としては小さいのかもしれない。(ちなみに、10年前の『没後20年 中原淳一展』の図録も古書店で入手してあるけど、関係する記載がほんの少しの文章で説明があった)

いずれにしても、終戦直後の短い間に自分の雑誌のために試行錯誤をしていたことは、これらをみれば明らかだろう。

なお、茨城県現代美術館で行われた「ひまわりや」代表の中原利加子さんの講演のときに、この雑誌について聞いてみたら、「珍しいですね。原画は失われているので貴重です」といったことを言っていただいた。
そしたら、あっしの周りにいた人が集まってきて「ちょっと見せてください」というので、どうぞどうぞ。
中には「あなたは研究者か何かですか?」なんて聞いてくる人もいた。
ただの、変なおっさんです。ハイ(笑)

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2014.08.08

『みて、きいて、ふれる-この夏に知る戦後の労苦』 (平和祈念展示資料館) を観る

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この夏、昭和館しょうけい館、そしてここ平和祈念展示資料館の、3館連携企画ということでスタンプラリーをやっている。
あっしは知らなかったのだが、最後に来た平和祈念展示資料館でラリー用のシートをもらったので、先の2館はもう一度行かなければならない(笑)

平和祈念展示資料館は、新宿住友ビルの48階にある。
このビルには初めて入ったが、エレベータが全階共通ではなく、例えば48階から52階用でそれ以外は停止しないといった使われ方をしている。だから、別のエレベータに乗ってしまうとたどり着かない(笑)

これら3館の展示内容はそれぞれ分野が異なり、平和祈念展示資料館では、
・召集・入営・兵士の装備
・戦後の強制抑留(特にシベリア抑留)
・海外からの引き揚げ
といったところに焦点が当てられている。

いずれのコーナーにも豊富な展示物があり、実物大ジオラマもある。
(ただし、リアル感としてはしょうけい館の野戦病院の方が上かなぁ…)
また、シベリア抑留の収容所全景のモデルがあったり。

とにかく、シベリア抑留に関しては、悲惨としか言いようがない。
ノルマのきつい強制労働、少ない食料、非常な寒さ。
最初の1年で多くの人が亡くなったという。

人が生きていくためには食料が最も重要であることも説明で示されている。
塊で渡される黒パンを平等に切り分けるための苦労や、それによる仲間間の争い。
飢えをしのぐために防寒着を手放してしまうほどの切羽詰まった状況。

極寒の地では、亡くなった仲間を埋葬することもできず、ただただ遺体に雪をかけただけだという。

また、戦後、大陸に残された人々が日本に帰還することも大変であったそうな。
食料はもとより、医療品もなく、せっかく帰還船に乗ることができても日本の地を踏むことができなかったという人々も多いという。

体験コーナーでは、防寒着を着ることができたり、軍装リュック(約20kg)を持ち上げたりといったことを体験できる。また、行動用ラッパのメロディーを聴くこともできる。ちなみに、某胃腸薬で使われているラッパのメロディーは、食事開始のモノだと言うことが分かった(笑)

この日は、子供向け企画として、これらの展示とは別に用意された実物資料(複製を含む)を使って、多くの説明員が説明に当たっていた。あっしもそれに混ざっていろいろと疑問点を聞いたりした。
たとえば、
・慰問袋は本当に届いていたのだろうか?
  (もちろん最初は届いていたんだろうけど、制空制海権をとられた後はどうだったのだろうか)
・(置いてあった)防弾祈願チョッキの裏地に使われているのが紙布のようであるが?
  (これはたまたま『底のない袋』(青木玉著)の中の「紙を着る」という随筆を読んだばかりだったので)
また、シベリア抑留から帰還する際、ソビエトから新しい防寒着を支給されたといった話も聞いた。(これは抑留中にもソビエトは抑留者に適切な扱いをしていたというカモフラージュのため)
などなど。

なお、合わせて企画展が開催されていて、「酷寒の地 シベリアを描く 早田貫一抑留絵画展」も観る。
茫洋として半ば絶望的なモノを感じさせるが、なぜか筆使いは柔らかい。失った仲間達への鎮魂のためなのであろうか。

先の2館もそうであるが、実物資料を前にすると、本や映像を経由して記憶していたものを凌駕する。
だから、だから、こういった資料館をもっと活用してもらいたい。

(51階は無料展望室なのだが、知らなかったので行かなかった。あぁもったいない(爆))



『みて、きいて、ふれる-この夏に知る戦後の労苦』
平和祈念展示資料館
2014/07/19~2014/08/31

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2014.08.05

『義肢に血が通うまで -戦傷病者の社会復帰と労苦-』 (しょうけい館) を観る

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昭和館の企画展を観た後、靖国通りを神保町方面に歩いて行くと、変な看板が目に入った。

しょうけい館、とは聞いたことが無い施設名だったが、どうやら戦争に関する展示を行うようだ、ということで、小さな路地に入って入り口を探した。

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すると、割と立派なビルのガラス窓に同じ画像が貼られていた。

しょうけい館とは、戦傷病者史料館が正式名称らしいが、要するに戦争で腕や脚を切断せざるを得なくなったり、失明したりと、障碍をもつことによる苦労と生活の再建への取り組みを紹介するのが目的のようである。

1階が企画展で「義肢に血が通うまで」、2階が常設展示となっている。
また、1階には映像コーナーや関連書籍、情報検索用PCなどを使用できる場所もある。

まずは企画展を観てみる。

主に義肢や義足の実物を展示しているのだが、その歴史は古く、日本では西南戦争の頃から少しずつ普及していったようである。当初は失った部分の見栄えを補完する審美的義肢から、その後は実用性(作業性)を重視した作業用義肢に重点が変化していく。
これは、義肢を装着する本人が、作業することを通して社会に復帰していくことを示している。
しかし、そうはいっても簡単なことでは無い。
各種の作業のための義肢が開発され、それを使って訓練を行い、身を立てられるようにするには血のにじむような努力が必要であったろう。
それこそが、ここでいう「義肢に血を通わせる」ことになるのだ。

既に現代の技術では、義肢に神経を通わせることも可能になりつつある。

現代日本では、戦争による四肢の欠損といったことは、もはや無いと言えるが、交通事故や労働災害、疾病などでやむなく必要になる人もいる。だから、義肢の性能向上についてはたゆまぬ性能向上が必要とされるだろう。

また、国外に目を向ければ、戦争が日常になっているところも多く、毎日のようにニュースで報じられている。
そのような場所では、今でも義肢を必要とする人々が増え続けているのだろう。
いつまでこんなコトが続くのか…。


さて、2階へ。
見所は、兵士が受傷したときの衣服だったり、眼鏡だったり。摘出した弾丸だったり。

さらにびっくりするのが、野戦病院の実物大ジオラマ。
薄暗い洞穴には受傷した兵士が3人。
一人は洞穴の壁際で銃を持ちつつ虚ろな目をしている。
一人は運び込まれた担架に乗せられたまま地面におかれてい、片手を虚空に伸ばしている。
もう一人は粗末な台の上で軍医によって弾丸の摘出手術を受けている最中。口には棒をかませ、麻酔なしの痛さに弓なる背中を押さえつけるために衛生兵が二人がかりで兵士を押さえつけている。
そしてまた一人、洞穴には肩を担がれた兵士が入ってくる。

いやはや、背筋が冷たくなるほど良くできている。
長居はしたくないけど、ナレーションを聞き終わるまで動くことができなかった。

終戦。
帰国する病院船である氷川丸の映像であったり、箱根の療養所で使われた車いすであったり。

それらを見て気がついたのは、傷病者の来ている服は白いのだ。

ここであっしの古い記憶の話になる。

幼稚園か小学校低学年の頃だったか。
親戚の家に行くために車で上野のガード下を通り過ぎると、レストラン聚楽と京成上野駅入り口の間に階段がある。(階段は今でもある)
その階段の両端には白い衣装を着た人が下から上まで何人かずつ並んでいた。
中には、明らかに両手両足の長さが足りていない人もいた。
幟や看板みたいなものがあって、何かが書かれていたような気もする。

いつの頃からか、そういう人は見当たらなくなり、似顔絵描きの人なんかに変化していったのだが、白衣装の人の記憶は、脳味噌の奥底に沈んでいた。

ところが、今回の展示を見て、「あぁ!」とつながったわけである。
あれから30年、40年。もう彼らはこの世にはいないのだろう。
でも、あっしは覚えていた。
そして、これからも忘れないはずだ。

大きくはない展示設備であるが、一度は観ておくべきであろう。


『義肢に血が通うまで -戦傷病者の社会復帰と労苦-』
しょうけい館
2014/07/23~2014/09/15

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